ネイティブランゲージで
唄うということ。

〜フェイ・ウォンと高橋幸宏〜

 まず、最初に訂正しなければならない。以前書いた王菲アルバムレビューで、私は大きな過ちを犯してしまった。そう、最新アルバム『王菲』は、全編、マンダリン(北京語)だったのだ。誠にお恥ずかしい限りだ。これまで王菲は、香港市場向けの広東語作品と台湾市場向けの北京語作品を交互にリリースしてきた。レコード会社を移籍しての第一弾『王菲』は、もちろん香港がメイン市場。その先入観が、この過ちを惹き起こしてしまった。
 王菲は、マンダリンで唄うことにこだわっている。『SWITCH』誌11月号のインタビューでは、今後、広東語で唄うつもりはないと語っている。それは、彼女が北京生まれだからという、非常にシンプルな理由からだ。このインタビューでは、英語で唄う計画はあるかとの問いもなされているが、これに対し「数曲唄う可能性はあるが、英語のアルバムを創ろうとは思っていない」と答えている。米語で唄うか英語で唄うかについても考慮しないといけないとまで語っている。
 要するに、「自分自身が理解できない言語で唄っても、心を込めることができないから、私にとっては意味がない」ということだ。これに対し、彼女お得意のスキャットもからめての質問に対しては、自分にとって意味がなくても聴き手にとって理解可能な言葉である他国語と、自分のなかから出てきたスキャットでは違うと答える。まったくもって、正しい認識だ。
 一方、高橋幸宏とスティーブ・ジャンセンは、ワールドワイド展開を狙う新しいコーポレーションアルバムで、英語圏の女性ヴォーカルを迎えることにしたという。ジャンセンが唄わないのは、絶交状態の実兄、デヴィッド・シルヴィアンに似た声質に対するコンプレックスか、自分の歌声が嫌いだからだという(私は彼のヴォーカルも好きなのだが)。高橋が唄わないのは、王菲と同様の理由からだ。
 世界共通語としての英語を優先し、自らの肉声を譲る高橋。自らの肉声を優先するなら、ローカルであろうと母国語を選ぶ王菲。どちらにしても、母国語でなければ「唄」の力は活かし切れないという結論だ。同様の結論から、正反対の答えを出した王菲と高橋。それは、彼ら各々のなかの「ヴォーカリスト」の割合の違いとして容易に納得できる。ともに、真摯な判断だといえるだろう。
 もちろん、王菲がマンダリンで唄うことを強く主張できるのは、彼女にヴォーカリストとしての確固たる自信があるからだ。事実、日本や欧米、非中国語圏のアジア諸国のリスナーが、彼女の唄声に心酔している。多くの日本人が、英語音楽に心酔できるように。
 唄に必要なのは、言語ではない。想いだ。ヴォーカリストにとって必要なのは、もっとも効率よく想いを乗せられる言語であるということだ。

(ピーター・リェン)


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