雨の日の災厄

 僕は雨の日が嫌いではない。だけど、こんな日は‥‥。

 自称フリーライターの身に、国民の祝日など関係なく、敬老の日も間借りしている市ヶ谷の事務所で仕事をしていた。そこそこ順調に作業が進み、夜8時頃、タバコを買いに外へ出ると、いつの間にか、小雨が降っていた。
 表通りに出ると、すっかり暮れた雨の夜に、自販機が煌々と輝いていた。はだかで握り締めてきた千円札を投入口へ吸い込ませ、PREMIER PIANISSIMOのボタンを押す‥‥というところで、手が止まる。
 ‥‥みつしりだ‥‥。
 そこにはショウジョウバエ(のような小さな虫)が「みつしり」とたかっていたのだ。改めて気にしてみると、光源となったディスプレイウインドウのみならず、自販機の台座の設置点から50センチほど手前まで、それはそれは「みつしり」と、ショウジョウバエ(のような小さな虫)の大群が敷き詰められているではないか‥‥。そして、反射体となっていた僕の白いTシャツにも‥‥。
 とにかくタバコだ。ボタンを押すと下の取り出し口に商品が落ちる。かがむと半透明のフタにも「みつしり」だ。息を止めて(まったく意味はないのに)勢いよくそのフタを押しやり、目的のブツを拾い上げる。
 次は、釣り銭。釣り銭レバーにも「みつしり」。レバーに息を吹き掛け、空いたところをすかさずつまみ、ひねる。じゃらじゃらっ!と釣り銭受けが響く。最後の難関。商品取り出し口以上に、4センチ角ほどの「みつしり度」は高い。だが、明日をも知れないその日暮しにとって、740円はばかにならない。一気に指を突っ込む。そして枚数を確認する。しつこいようだが、10円足りとて粗末にできない生活なのだ。
 一仕事を終え、我が身を確認すると、シャツも、腕も、虫だらけ。腕に息を吹き掛け、Tシャツをばたつかせながら、事務所に戻る。なんとかすべて払い落とせたようだった。

 しかし、これも不吉の前兆でしかなかったのかも知れない。
 なんとかこの場での作業を終え、10時前に事務所を後にする。どうやら台風が来ているようで、雨はさらに強まっていた。市谷田町から外堀通りに出ると、お堀沿いの歩道への信号が青く点滅している。中央線市ヶ谷駅に向かう際、ここが青なら渡るのが、ここに通うもののセオリーだ。僕も条件反射的に駆け渡る。
 祝日の夜10時ともなると、家路を急ぐのか、いつにも増して車の流れが早い。駅に向いながら帰宅してからの段取りなどを考えながら歩いていると、一瞬の衝撃を受け、思考が停止する。
 この感覚。どこかで味わったことがある。そうだ。プールへ落ちた時だ。
 粗末なインフラが産み出した黒く光る水源を猛スピードで走り抜ける真っ赤なスポーツカーの後輪(かどうかは知らないが、とにかくいけ好かないクルマ)によって発生させられた、バケツ3杯分程の液状の怪物が僕の全身を襲ったのだ。おまけに、本来なら頭上を通過するはずのバケツ1配分程の固まりまで、ご丁寧に傘の内側の反動を使って、脳天を直撃しやがる。
 30数年の人生において、五指に入るであろう屈辱的な瞬間であった。
 唯一の救いは、その後乗った電車が空いていたおかげで、他の乗客に嫌な顔をされなかったことぐらいか‥‥。

 本日の教訓。雨の日に、外堀通りのお堀側の歩道は歩いてはいけない。(なんてローカルな教訓なんだ)

(天野千晴)


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