嗜好の方向

廃 墟 論

 じきに一昔前のことにもなる。世の経済市場が果てなき妄想の夢を見ていた頃、全国にきらびやかな建築物が竹の子のように生えた。それこそ、まるで朝日ソーラーのCMのように。―――まあ今現在でも、そういった建物が前世紀の幽霊のように現われることもあるらしいけども。
 技術大国日本の最先端を行く、デザイン性の高い建築物。奇麗で清潔で無機的で。それなのに何故か愛せない(個人的には、かなり無機好きなのだけど)。
 廃墟。汚くて不吉な場所。しかし何故か引きつけられてしまう。隠された空間。
 ‥‥近頃、廃墟が熱かないかい?
 で。何でだろうとちょっと考えてみた。
  ―――ちょっと―――
 その違いは、それが雄弁か否か、とゆう点にある気がする。

 現代建築は、よく喋る。意味のなさそうなことを、べらべら喋る。そりゃあ、中には素晴らしい志を持った奴もいるのだろう。でもそれを自慢している。媚びている。
 対して廃墟は、無口なのである。いや、喋ることが無いのではない。それは「敢て黙す」と言った姿勢に近い。わかりたい奴は己で解かれ。まさに「不立文字」のイメージなのだ。
 さて。二者をそう変化させているのはなんなのか。
 それは多分、人間である。
 建物に出入りする人間の想念が建物に反映して、彼らは話しだす。建築家の主張、持ち主の理想、使用者の何様もの思い妄想情報‥‥だが、人が消えた(或いは極く少なくなった)廃墟は、もはや何も反映しない。建物の見てきた生き物の微かな記憶と、建物自身の「気」があるだけである。それは言葉ではちょっといい様のない、物の気。
 で、結局、時代に沿った動的なものから静的なものへのシフトが、人々を廃墟に引きつけているのかも知れないな、と思った訳(もちろん昔から好きな人もいるけど)。
 ならば現代の安っぽい建築物も、人間さえ消えれば‥‥いつかやさしい廃墟になれるのだろうか。今までの廃墟の成り立ちなどを考えれば、なって当たり前なのだが、感覚的にはどうもそんな気がしないのである。
 どうしてだろう。
 なにかが、ちょっと不安である。

(アジサシ朔)


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