青島。時代に寄生した者。
―それはひとつの日本の結末。



 昨年暮れ、フキョウが席巻する暗黒の島ニッポンの映画界に、久々のメガヒッターが現れた。そいつは『踊る大走査線』。
 見ました?
 テレビドラマを決して超えてはいない、その内容。あいも変わらず、いや、さらに磨きのかかった、あのアニメーションへのオマージュ(オマージュのオマージュなんだね)。
 ところが、これが流行った。
 どかんと売れた。
 だがなぜ、テレビドラマ放映時の視聴率は高くはなかったというのに、これだけヒットしたのだろうか。一体、その要素はなんだったのか。
 その要素の一つに「観客は湾岸署に日本を見ているからだ」ということがあるのではないかとわたしは思う。つまり「湾岸署→日本の社会。」で、「警視庁→よその大国。」と言う訳。
 また、「署長達→日本の政府のカリカチュア」でもあれば、「管理の機構→日本の窮屈さ」でもあるわけ。
 そんな世界に観客は異様な親近感を抱く。そして似ていながらも、現実とは違う「理想の具現」が描かれる世界に「希望」とかいう単語をちょっと思い出したてみたりする。
 そう。「踊る大走査線」は「世紀末救世主伝説」。青島は「腐敗した社会の仕組み」に挑む、陽気な救世主なのだ。そして観客であるところの日本人は「あおしまーっ!」と叫び、彼を熱望する。なぜか。
 その「他力本願っぷり」ゆえに。
 いまある、この暗くてつらくて先が見えなくておもしろいことのない社会に、風穴をぶちあけてくれる「英雄」、それも「かなり親近感のもてる近所のおにいちゃん的英雄像」を青島に求めている気が、わたしにはするのである。嗚呼。
 ひとつ間違いのないように言っておくのなら、『踊る大走査線』はおもろい。わたしもテレビドラマ時から大好きである。
 ただ、これほど青島がウケる、求められる社会にちょっと不安を覚えるのである。
 それはかつてのソ連であの書記長が改革のヒーローのようにもてはやされ、彼が失脚すると途端に他の「依存者」を求めたあの国の、社会の末期的症状をいやでも思い出すからである。
 今、警官を志望してくる若者の憧れる刑事ナンバー1は「青島刑事」なのだそうだ。バブリーなはみ出し者タカでもユウジでも、バイオレンス大門でも、アウトサイダージーパンでもない。ページはめくられた。しかしそれが前へなのか後ろへなのかは、まだわからない。

(アメヤキミコ)


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