音楽(おと)と共に生きて
〜嘉手苅林昌さんについて〜



 一昨年夏、NHKでネーネーズなどの沖縄のバンドが紹介された。一瞬SPEEDとか知念里奈チャンとかの育ってきた背景とかいう番組か?と思って見ていたのだが、全くそんなものではなく、現地のミュージシャンの活動についてだった。しかも、宇崎竜童が彼等との交流を通じて沖縄の土着サウンドに迫って行くという企画であり、非常に興味深かったのだが、番組の最後に竜童さんが訪ねたのは沖縄島唄を演奏することへの信念を戦時中も曲げず、現在までその伝統を守ってきているという嘉手苅林昌という三絃(サンシン:三線とも書く。県外の人々が「蛇皮線」と誤って呼んでいるものである)の名手であった。

 林昌さんは、大正9年(1920年)の7月4日、本島中部の越来村中原の生まれであり、戦前の沖縄の農漁村で毎日若い男女が今でいうクラブ的なことをやっていた「毛遊び(もうあそび)」の場で歌遊びの際に既に14、15才の頃から三絃を弾いており、その中で楽器の腕を競いあうようになっていった。
 太平洋戦争が勃発した昭和16年12月から、2年の兵役を務め、南洋の島々を転々としたが、その後のアメリカ世となった沖縄ではまた平安山英太郎ともえ劇団に地謡として参加、旅回りをするようになった。沖縄戦は、最近、岡本喜八監督の「激動の昭和史・沖縄決戦」を見たが、相当に悲惨であったのだろうと想像するが、それらの歴史をこえて(しかも戦前には中央の皇民化教育の沖縄独自の文化への抑圧さえあった)林昌さんは島唄を今も歌い奏でている。

 番組の中で竜童さんが「俺なんかはやっぱ、自分が音楽をやりたいって感じなんですが‥‥」と言うのに対して、林昌さんは「私はどなたかが聴いていただけるのでしたら、喜んで弾きますが、特に自分自身が聴かせようとは‥‥今は思いませんね。」と答えて、竜童さんのリクエストで一曲弾いた。私は、彼の痛みなどを身をもって知るはずもないが、その眼(まなこ)が見ているのは既にその三絃の作り出す音の世界そのものという感じがした。
 音楽を奏でている者なら誰でも、多分、自分の手を離れて音が舞っている‥‥物理的にいうと自分が奏でているのではないのではないかと思う音を瞬間的に見る(聴く)ことがあるであろう。林昌さんが三絃を弾こうと持った瞬間、彼は別世界の人となった。それは、己の音世界を極限まで追及し、その音と同化してしまった者の姿であった。それ故に、誰かに能動的に聴かせようとは思わないのであろう。それは、自己満足でもなければ当然エゴでもない。林昌さんは、ただただそこに音を求めたのである。

 現在、ロックは死んでテクノロジーが音楽をコントロールしてしまったかのように言われ、そしてまた、自分も生のドラムを叩き続けるオールド・ロック・ミュージシャンなのかもしれないが(別にテクノロジーを否定してはいない)、たかが十数年の音楽の流れの中で時代がそれらを必要としなくなったと思える時期があったとしても、音楽というものはそれを奏でる人間や、聴こうとする人間以上に世界(宇宙?自然?)が我々に手放させないものだといえるだろう。これはマーチャンダイジングや、社会性といった人間の理性が恣意的に形造り神格化した(らしい)システムを嘲笑うかのように存在すると俺は思うのである。

 音楽は「作る」ものではなく、「生まれる」ものだと曲作りの段階ではいつも思うけれど、嘉手苅林昌さんの内から生まれ、流れ出す音とは絶対的なものに限りなく近い。多分、自分も死ぬまで追及していくだろう。
 聴いてくれる人が死んだ後にもいてくれるならなんと幸せだろうか‥‥。

(嘉手苅林昌さんのCDは、現在「彩なす島の伝説」Vol.1、Vol.2など3枚が販売されています。)

(藤井 宏治)


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