圧倒する言葉
『mori o meguru sisaku ―絵と詩の展示―
山口健児・井口美里

ギャラリー アート・スペース・コア(1998.10.03〜10.08)


 9月の『今月の一枚』で作品を紹介した山口健児さんの個展に行ってきた。今回は、詩人の井口美里さんとのコラボレーションなので個展ではないな。素直にコラボレーションでいいのか。あんまりカタカナ使いたくないけど。

 展示方法は、会場の壁面いっぱいにリズム感を持って並べられた井口さんの100点ほどの詩編の紙片(^_^; の間に山口さんの絵画が点在しているという感じ。形式的には、詩集の挿し絵の様。私も自称「しじん(ひらがな表記)」の端くれなので、つい詩を中心に鑑賞してしまった。

 とにかく、井口さんの詩は、量のパワーが圧倒的だ。詩編は一編一編がひとつの作品として成立しつつ、いくつかのグループを形成し、また全体でひとつのストーリーが暗示されていく。
 最初の方は「記憶」を主題にした作品で、個人的に最近はまっていた京極夏彦や先鋭的な深夜アニメーション『lain』の題材と通じることから「またしても『記憶』!」と軽い目眩。「記憶」は人間にとって究極のテーマのひとつだが、とくに「今」の旬でもあるなぁ、と改めて感じる。中盤以降は赤裸々でセクシャルなイメージもあり、好き嫌いを分けていたようだ。
 あまりの物量に、正直いって途中「厳選して絞った方がよかったのでは?」とも感じたのだが、後半に差し掛かる頃になると、この圧倒的な量こそが、この展示の意義だと感じるようになる。小説を読むように、読み手がその世界に没入してこそ得られる感覚。そのための「量」だと感じる。
 自称「しじん」の私としては、わりと好みの前半で本気の体勢に入ってしまい、格闘するかのように読み進んでいったので、相当な身体消耗を強いられたが、最後まで読み終わった時には、スポーツの後のような充実した疲労感を得られた。

 一方、山口さんの作品は、とにかく渋い。日本画材と池袋の雑踏をベースにしたコラージュは、都市生活者の通り過ぎて行く記憶の断片をすくい取って眼前に置かれたようなざわつきがする。とくに3.2×1.7メートル大の大作は、不安と安堵の交錯した「空間」を投げ掛ける。
 この文を書きながらその作品を思い浮かべていてふと思ったのだが、以前から一貫した山口さんの作風には、前述の『lain』の雑踏シーンに通じるものがあるような‥‥?と思い、電話で話を聞いてみると、やはり彼も『lain』には自作品との共通項を見い出していたようだ。その共通項は、都市のイメージだけではなく、死とともにある生という、もっと大きなもののようだ。

 正直いって私は、「mori o meguru sisaku」という表題がピンとこなかった。両者の作品ともに、「森」のイメージが伝わらなかったからだ。ただ、話を聞いてみると「mori」とは、都市生活者にとっての森、つまり「都市」そのものであり、井口さんの作品中にも登場する「memento mori」のmori、つまり「死」を前提にした身体のイメージとのこと。いわれてみればなるほど、であるが、ちょっと分りにくかったかな?

 ところで、井口さんの詩に勝負を賭けて臨んだ私は、「あとがき」とでもいうような番外の一編を前に敗北に終わった。それは、こういうものである。

  さっき、ギャラリーに足を踏み入れ
  ひとまわりした足は
  立っていた時間を蓄積はしたが
  一歩一歩全てを覚えている訳ではない

 「やられた」って感じ(笑)。この一編が、この展示のすべてを表わしていたかも知れない。

 なお、初日のオープニングパーティでは、井口さんのご友人による舞踏と井口さんのパフォーミングフルな(<こんな言葉あるのか?)朗読が披露された。井口さんは、この舞踏方面でも活動されているとのこと。機会があれば、そちらも見てみたい。

(蓮見季人)


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