Short Short Story
透明人間



「その程度のことでしたら、医学的にはとっくに完成していますよ。なにせ色素をなくせばことは足りるわけですから、単に漂白剤から人体に及ぼす有毒物質を取り除くだけのことですからね」

 聞いて俺はびっくりした。透明人間になんかはいつでもなれると、その医師は言う。俺はそんなことはSFの世界だけでの話だと思っていたが、いざそれが現実ということになれば、ちょっとやそこらの金を出しても俺は惜しくないと思った。だってそうだろう? 本当に透明人間になれるんだったら、そんな金はすぐに取り戻せるだろうし、それに金には替え難いような体験だって簡単に出来るじゃないか、なあ?

「すべてが透明になったあと、最初に骨から色素が戻ってくるんです。次に内蔵や血管そして筋肉、最後に皮膚に色素が戻ってくるので、その都度いろいろなことが観察できますし、診療に役立っているんです。でも素人目には凄く不気味ですよ。あなたは健康なのに、なんでそんな体験をされたいんですか?」
 医師は不思議そうな顔をして俺を見る。

「いくら出したら、それを売ってくれるんだ?」
「安くはないですよ。なにせ本来が純然たる医学の研究のために開発されたものですからね」
 そんなことは百も承知だよ。だから値段を訊いているんじゃないか。
「錠剤になってるんで、1錠5万ってとこじゃないでしょうか」
 ちぇっ、足もとを見やがって。でもしようがない。言い値で勝負するしかない。

「で、そいつ1錠で、どれぐらい楽しめるんだ?」
「楽しめるかどうかは別ですが、なにせもともとが漂白剤ですからね。大したもんじゃないんですよ」
「だから具体的に何時間持続するかってことだよ」
「効き目が現れるまでに時間が掛かるんですが、その効き目は逆に短くて、精々が1時間でしょうか、それに一時にそうそう量を飲めるってわけでもないんでね」
 なんてこった!
 医師の説明によると効き目が現れるまでに通常8時間を要すると言う。それに一気に大量を服用すると命に関わるということだ。そこで1時間ごとに1錠づつ4回飲み、4時間ほど待てばそこから4時間は透明状態を楽しめるってことらしい。俺が透明になってやってみたいことって言ったら、そうだよな、まず温泉に行って女湯にこっそり入ること、それに銀行に行って札束をごっそり持ってくる、なんてとこかな。
 で、そいつを買うことにした。1錠5万は安くはない。でもそんな金なんて何も銀行まで行くことなく、どこででもすぐに取り返せるし、なんていったって透明なんだからな。楽しみはいくらでもある。
 そこで俺はとりあえず20錠を100万で購入し、そのまま箱根に向かった。

 昼前に到着した俺は1時間ごとに1錠を4回飲み、4時間ほど眠ったあと、行動を起こすために目を覚ました。
 俺の身体は見事に透明になっていた。
 しかし透明であることに相違はなかったが、ちょっと予想とは違っていた。
 たとえば手を見ると皮膚も血管も骨も透明なんだが、それぞれが透明のガラスやラップやプラスチックやビニールで出来ているようなもので、透明ではあっても目に見えるんだ。
 俺は文句を言うためすぐに医師に電話を入れた。医師は俺の抗議に実に冷静に答えてくれた。

「その通りですよ。あなたの身のまわりにあるコップやジョッキ、カメラや眼鏡のレンズ、セロファンやビニールの袋、それにクレラップ、コンタクトレンズもそう、みんな透明じゃないですか。でもいずれも目に見えないというわけじゃありませんよね? 薬を飲んだからといって誰の目にも見えなくなるなんて、私、言いました? ただ透明になると言っただけでしょ?」

(宮田 次郎)


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