再び・彼の街より
其ノ二
うつせみ


 空蝉宗の宗家は西の山奥に屋敷を持つ大地主である。宗主である丸々と太った一人息子は、大悟を得るまで殆ど人前に現れた事がなかった。知能に障害があったとも聞く。

 今、彼等の集落に住む者は殆どいない。川辺の森を切り開いた窪地を挟む形で五軒長屋が東西に二つづつ並んでいるが、大半の部屋は硝子戸をカーテンで閉ざしている。

 町工場のような長屋は何の変哲もないが、玄関の上の下見板に刻み込まれた奇妙な透かし彫りが目を引く。笑う翁の顔で、目の部分がどれも空洞になっている。皆両手で半ば顔を隠しているにも関わらず、その口許を僅かに歪めた異様な笑みを長く正視できる者は少ない。どのような塗料を使用したものか、その透かし彫りは軒下の暗がりで膿汁のようなてらてらした艶を放っている。

 窪地の真ん中には小さな堂がある。木造の伽藍は気違いじみた正確さで模された蝉の抜け殻の形をし、内部は完全な空洞である。波打つような壁の褶曲は、外面の凹凸を完全に裏返しており、やはり漆のような塗料が塗り込められ湿った光沢を決して失わない。

 一〇年前のある日、宗主の少年以下住民の大半がその姿を消した。遂に彼等は一切の理性のくびきを脱し羽化登仙したとも、今も尚、壁に篆刻されたあの老爺と同様の笑みを浮かべたまま、堂を囲む広場の地中に胎児の姿勢で埋もれているとも言う。

 しかしいかなる至福の地であれ僕は彼等の召された、あるいはこれから赴かんとしている浄土へなど行きたいとは思わない。集落に取り残された数少ない人々に尋ねても、同じ答えが返ってくるだろう。

 引き攣った口許に妙な薄笑いを浮かべる彼等が、まともに話せるならの話だが。

(和田 鴉)


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