再び・彼の街より
其ノ三
街角


 雨上がりの明け方。銀行前の四つ角を歩いていると、空の彼方を鼠の群れが渡っていくのに出くわす事がある。黒い生き物の群は尻尾を振りたて、灰汁色の空を騒々しく移動していく。

 どうやら連中は、空を海か湖だと思っているらしい。

 建ち並ぶ古めかしい摩天楼の間に、人の目覚める前の喧燥がひとしきり反響し、やがて静寂が戻る。摩天楼の高い窓はまだ大半が雨戸を閉めたままだ。

 ところがこの鼠どもを、更に高い空から襲撃する奴が居る。姿は見えない。しかしそいつは時折見えない刃を落とし、空を渡る鼠どもを殺戮するのだ。

 錆びた避雷針と垂れ込めた雲の間の空域に居座るそいつを、『チェシャ猫』と呼ぶ者もいる。しかし本当のところ、そいつはこの世界に外から紛れ込んで来た、尻尾のない小心な屍肉漁りだ。

 ほら、今朝は奴のにやにや笑いがいつになくはっきり見える。鼠どもは命を絶たれる寸前に、耳障りな断末魔の絶叫を響かせる。そして体を真っ二つに切り裂かれた瞬間、その叫びは谺も残さず消えてしまう。

 上は見ずに歩こう。新しい浄瑠璃のポスターも貼られているし、紺と灰色が交互に並ぶチェス盤のような舗石の間には、季節外れの蒲公英も咲いている。人を食った猫の無い笑いなんて、今更見たくもない。

 僕はただ、思い出したくないだけなんだ。

 この世界が実は、陽の沈まぬ砂漠に半ば埋もれた巨大な帆船の船底だ、なんて事、今更思い出したってどうなるものでもない。

 だからせめて僕は毎朝こうして、会社の回転扉を最初に回してやるのだ。

 沼の水面を垂直に立てたような硝子扉がゆっくりと回りだすと、まだ眠ったままの空気が目覚め前の寝がえりを一つ打つ。

 まだ受付のいないがらんとしたロビーは、今朝も微かに水苔の匂いがする。

(和田 鴉)


連載トビラへ