再び・彼の街より
其ノ七
もののけ百態 ―道楽堂―


 柱時計が鐘を三つ打ち、ぜんまいの解れる音が消えたと同時にドアノブががちゃがちゃ言い始めた。ややあってようやく内側に開くドアと折り合いをつけたらしく、その男は飄々とした足取りで地下の店に入って来た。綺麗な目をした好青年で、ひしゃげた帽子を斜めにかぶっている。
 「今晩は。随分遅くまでやってるんですね」
 少しばかり舌っ足らずな声で愛想良く言い、男はカウンターの前までスロープを降りてきた。半分に割ったすり鉢型の店の内部は、大学の階段教室を思い出して欲しい。私の陣取った馬蹄型のカウンターは丁度教卓に相当する。
 「あなたももののけ退治の口ですかな」
 私はそれまで店に流していたダウランドのリュート曲集の代わりに、ビリー・ホリディのLPをプレイヤーに置いた。今夜二人目だったか三人目のこの客は、ひょっとしたらガムランや印度音楽の方が好きなのかも知れないが、店には店の都合もある。気に入ってくれると嬉しいのだが。
 「ええ。別にやっつけるつもりなんてないんだけど、一目会いたくって。いることはいるんでしょ? この辺りに」
 「でもね」と私。「私も三十年この店任されて来たけど、もののけなんてただの一度もお目にかかった事ありませんよ。ちなみにうちの『道楽堂』って屋号もその化物の名前をそのまま貰ったんですがねえ」
「へえ」と若い男。「あ、忘れてた。モカちょうだい」
 私は豆の量を慎重に計り、お湯の温度を測るためにあまり使った事のない温度計を取り出した。大体この時間に来るお客はやたらコーヒーの入れ方にうるさい。カウンターに頬杖をついた青年も楽し気に私の手つきを眺めている。
 ひょっとしたらこの青年は、本当に根っからの善人なのかも知れない。ドアは通行に邪魔にならぬよう、手前に引くものと決めてかかっているような。
 「ねえマスター。その道楽堂って化物、なんでそんな変な名前なの?」
 話好きの聞き上手らしいその男は、よく見ると外見ほど若くはないようだ。
 「何でも自分と全然関係ない物の名前を組み合わせたそうですな」
 「へえ。それじゃ、道ともお堂とも関係ないんだ。妖怪らしくないなあ」
 「ええ。それに勿論、道楽ともね。なんでもこいつに取りつかれると、知らないうちにただ働きさせられる羽目になるそうですよ。シビアな奴らしくて」
 「楽じゃないって訳か。どうせなら『北京の秋』って名前にすりゃいいのに」
 「なんです? そいつは」
 「小説の名前。どうせその話とも関係ないんだろうから」
 そう言って青年は悪戯っぽく私を見た。
 「ひょっとしてマスターもただ働きの口?」
 「とんでもない」と私。「私は働いてるつもりなんかありませんよ」


 寝静まった鉄道官舎を抜け、落葉松林の中に延びる軽便鉄道沿いに歩いて行くと、小さな無人駅の側にトーチカのような建物があった。大きな金属製の扉の上に額がかかり、妙な筆字で『道楽堂』と大書されている。入口の庇には丸い大きな電灯がぽっかり灯り、ドアに彫り込まれたDO! LUCK! DO! の文字を薄暗く照らしている。中では聞き慣れないへんてこな音楽が流れていた。
 ドアを開けると地下へ掘り下げられた店内に、丸天井から下げられた大きな白熱電球が暖い光を投げかけている。夜のもたらす安らぎを象徴する色だ。
 「今晩は。随分遅くまでやってるんですな」
 カウンターからマスターが私を見上げ、白い歯を見せ嬉しそうに笑った。
 「あなたももののけ退治の口ですか」
彼は私より間違いなく客商売に向いている。音楽趣味の違いは問題ない。しかし、カウンターの内側でも帽子をかぶったままなのはどうかと思う。

(和田 鴉)


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