道楽堂
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道楽堂十年史

前史 ウエスト・ウォール
 1981年。東京都下の某公立中学校に、シミュレーションゲームの愛好グループがあった(シミュレーションゲームというと、現在ではコンピュータによるものと思われがちだが、当時はボードもので、俗にウォーゲームと呼ばれ静かなブームだった)。卒業を前にした82年、彼らはゲームサークルを結成。井上竜夫を会長に、惑星直列の日(3月10日)よりウエスト・ウォール(以下、W会)と名乗る。
 翌83年春。W会は、会報誌『エンターテーメント(以下、E〜)』を創刊。創設メンバーの一人、醍醐利明が編集長に任命される。同年末、同誌のオフセット印刷化にともない醍醐はKET出版を開局(同誌の他にアイドルマガジン『ミーハー・クラブ』を創刊号のみ発行)。これが後の道楽堂へと発展していくことになる。
 W会は、当時創刊された専門誌に紹介され、また『E〜』誌も会報という枠を越え、三省堂や書泉など都内有名書店数店で販売されるようになる。会員数も増え、主催ゲーム大会も盛況と順風満帆に見えた同会だったが、当時高校生だった執行部は、台頭してきた成人会員たちに会のコントロールを乱されてしまう。そして84年夏、井上と醍醐は、この会を後にすることとなる。


昭和還年・道楽堂創業
 その頃、醍醐の興味は8ミリ映画に移っていた。数々の企画を立てては潰していたが、W会脱退直後の企画『河童伝説』の頃に、ひとつのプロジェクト名を思いつく。それが道楽堂だ。残念ながら映画は女優候補に「受験」を理由に出演を断られ坐礁。道楽堂名義の初企画は、あっけなく幻となった。
 翌85年春。井上らに、それまでの取引先(玩具問屋)から連絡が入った。夏のイベント用に『E〜』誌を納品してほしいというのだ。そこで道楽堂は、すでに名ばかりとなっていたW会の会員から『E〜』誌のすべての版権を譲り受ける。その編集版『エンターテーメント・スペシャルI・II』の2編を道楽堂名義で製作、9月1日付けで発行した。昭和還年。これが道楽堂の記念すべき初仕事となった。
 翌86年春、道楽堂は『E〜』誌を継承する総合ゲーム雑誌『ゲーム読本』を創刊(第二号はいまだ発行されていない)。また、道楽堂コミックス『ヒイラマン』も企画されるが、発行には至っていない。なお史料によると、87年1月には、すでに『ばるんが通信』の名が確認できる。
 この夏、道楽堂はまたしても映画制作に乗り出す。主演女優は森美知代。当時、醍醐が数ヶ月在籍した俳優養成所で知り合った中学三年生だった。夏休みを利用しての撮影予定だったが、台風の当たり年となり、延期に継ぐ延期。『WIND』と題されたこの作品はクランクインされたものの、またもや「受験」のため坐礁してしまう。
 挫折続きの道楽堂ではあったが、88年1月1日付けで『みどりのかすみ詩集−失語症のレクイエム』を発行。この久し振りの発行物は、「素晴らしい」「わけが分からない」と、賛否両論を巻き起こした。


ディア・ベランジェール
 このような活動と平行して、道楽堂のメンバーは、音楽活動も行なっていた。85年冬、井上が結成したバンドに醍醐が参加。メンバーチェンジを繰り返しながらオリジナル曲を書き溜め、細々とスタジオ練習を続けていた。そして、87年10月。ギター・井上、ベース・蓮見季人(醍醐はこのころから別人格に身体を浸蝕され始める)、ドラムス・鈴木政光、キーボード・佐久間充に、女性ボーカルを加えた時点で、バンド名をディア・ベランジェールとする。マネージメントおよびデザイン業務を道楽堂が行なうこととなり、翌新春、初めてのライブ演奏会を主催する。
 しかし、1度のライブで女性ボーカルは脱退。井上がボーカルとなり半年後、新生(?)ディアベラとして、1度の主催ライブと最初で最後のライブハウス(吉祥寺・曼だ羅)出演を果たす。このライブに合わせ、デモテープ「ディア・ベランジェール・1」を発表。8月には大阪合宿を行ない「同・2」を製作。道楽堂は、これらのレーベル名としてクレジットされた。
 その一方で、バンド外の音楽交流も盛んになりつつあった。井上は、当初からいくつかのバンドを掛け持ちしていたが、蓮見も雑誌に掲載されたメンバー募集告知に応募。ここで六井久人、高野敏らと出会っている。同年11月の主催ライブ会場には、彼らの姿もあった。ところで、このライブに合わせ3本目のテープを作製していたが、残念ながら間に合わず、発表延期となってしまう。
 その後、井上は、翌新春に他のバンドで芝浦インクスティックに出演するなど(このライブには佐久間もサポート参加)、音楽活動が本格化。他メンバーとの意識レベルでの差が広がってきたこともあり、2月の終わりに脱退の意志を表明。89年4月29日の5度目のライブを最後に正式に脱退する。残ったメンバーは、バンドの活動を凍結することになり、3本目のテープは、お蔵入りとなった。


潜伏期
 さて、バイト先で知り合ったギタリスト・浜地潤一と意気投合し、新バンドを結成した井上だったが、結局わずか一年ほどで脱退してしまう。その後、さらなるバンドを結成し、あらたなる道を模索していく。とはいいながら、実情は代田橋・モモンガスタジオにて、かつてのハードコアパンク仲間と毎週のようにアドリブセッションを繰り広げる、という有り様であった。
 一方、蓮見の活動もなかなか思うようにならなかった。まず、六井らとの新バンドは、六井が以前よりキーボードを務めていたジゼルのギタリスト脱退にともない、高野が後任として加入したことで自然消滅。また、ディア・ベランジェールの最後のライブにゲスト出演した石井かおりとのアイドルポップユニットや佐久間とのプロジェクトなども企画されたが、どちらもリハーサルに至らず。さらに、鈴木と佐久間の新バンドにも招かれるが、方向性の違いからまもなく脱退してしまう(なお、このバンドは後に発展しバード・オブ・プレイヤーとして活動を続ける)。また、秋には宗像教全監督の映画作品『スカラビウス』の音楽を任されるが、残念ながら感性のギャップを埋めることができず、「作品」と呼べるものにはならなかった。
 自らのバンド活動よりも、いくつかのバンドの「追っかけ」を続ける日々。ふと気づくと、蓮見は無国籍ファンクバンド(当時)はなわかのスタッフとなっていた。90年春から、同バンドの広報紙『ぼんてんフリ〜ク』の編集やカセットなどのジャケットデザインを道楽堂として受託作成する。
 また、同時期に再度、高野とのバンドやムーンライダーズ・コピーバンドを結成するが、すべて夏までには自然消滅してしまっていた。


試行錯誤〜番長参上
 このように、共に大きな進展もなく、連絡が跡絶えていた井上と蓮見だったが、ある日、共通の友人・原芳江の口利きで再会する。ちょうどその頃はなわかのリリコらにより新宿路上パフォーマンスが企画されていたこともあり、二人は、これにそろって参加。クリスマスの翌晩、総勢30人が集結した大騒ぎの中、蓮見の中で、ひとつの計画究極のバンド構想が固まりつつあった。
 このおよそ一年前、ある雑誌のメンバー募集で知りあった伊藤俊子を蓮見は「10年に一人の逸材」と感じていた。「彼女をカルトアイドルに仕立て上げる」。そのためのバンド構想が、やっと一点に絞られたのだ。蓮見は、井上や佐久間、他数名に声を掛け究極のバンドを結成。しかし、シュガーキューブスやバウワウワウなどを目指したこのバンドは、当の伊藤の「就職先が忙しい」という理由で数度スタジオに入っただけで、あえなく坐礁してしまう。あと半年早く動いていたら‥‥その時の蓮見の落胆振りは、はかり知れないものだったという。
 そんなある日、蓮見は井上を誘い、当時追っかけをしていたみちのライブへ出掛ける。二人は、この打ち上げ会場で隣合わせた男と意気投合。バンドをつくろうという話が盛り上がる。酒の席の話だと思っていた井上と蓮見だったが、後にその男から連絡が入り、本当にバンドを結成。その男が、後年コンビニ番長として君臨する前野太郎だった。スマイリーR&Rさあかす団と名付けられた(後にルナティックパレードと改称)このバンドへの参加が、蓮見、井上両名の現在に大きく影響を及ぼすことになる。
 まず、ここで蓮見は、自作曲を他人が歌うことに対するギャップを強く感じる。同時に、当時ひょんなことから観たパンタのステージで「存在感さえあればいいんだ」という都合のいい真理を悟ったこともあり、ソロ志向を芽生えさせる。一方、井上は「あのバンドで自分のプレイスタイルができあがった」と振り返るほどだ。ちなみに前野と蓮見は、ソングライティングチームピエール・ピエールを名乗り、数曲を共作している。


新ユニットディアベラ誕生
 ソロ志向を芽生えさせた蓮見は、早速オールインワンシンセ・コルグ01/Wを購入。美和と名付け、打ち込み活動を開始する。飽きっぽく、ドラムマシンさえ1曲通して打ち込みのできなかったはずの蓮見だが、名前を付けた効果か相性よく、編曲の魅力にとり憑かれるようになる。ここで、はなわかのCDレコーディングを見学しながら得たノウハウが活かされていることも忘れてはならない。
 この打ち込みと同時に、ライブメンバーを招集。元ジゼルゼクウが休止中だった高橋紺。高野バンドでリズム隊を組んだ佐藤鏡子。兄から紹介された、千夜野。そして、みち。このように女性ミュージシャンばかりを集めたスノッブマガジンを結成。各方面からの羨望を集める(この時の詳細は『スノッブマガジン2号』を参照)。この時、蓮見はパーマネントなバンドではなく、その企画の都度メンバーを集める方式に注目していた。これは、山口ミチローの皆様の栄養堂に感化されてのものだ。そして、92年5月30日。蓮見のソロ初ライブ『スノッブマガジン』創刊記念ライブが行なわれる。
 このライブに続き、蓮見は井上をプロデューサーに迎え、ファーストソロアルバムの製作を開始。予想以上に作業が手間取ったため、93年の年賀のご挨拶として、シングル『めとろぽりたんどり〜む/たえ』を発表。同封された「年頭の辞」には、「あんた、まだ、そんなことしてんの。と、いわれる人生を送りたい、と思う」と書かれていたが、この精神は現在の「道楽主義」に引き継がれている。
 一方、井上のバンド活動の方だが、なかなか定住先が決まらず、千夜野をボーカルに擁するコンブリオや粂川素奈生率いるハイブリッドなどいくつものバンドを転々。同時に5〜6バンドを掛け持ちする、器用貧乏生活に追われていた。そんなマゾヒスティックな日々を送る中、ついに井上は、禁断の扉を開く。ファンクの奥義に触れ、魔界に入り出したのである。スーパーサイア・ギタリスト、マイケルへの変身である。
 そんなこんなの合間を縫っての同年10月、遅れに遅れた蓮見のファーストソロアルバムが完成。『都市社会楽序説』と名付けられたこのアルバムの製作過程で、井上と蓮見は、プロデュースユニット化し、再度ディア・ベランジェールを名乗りはじめる。
 なお、レコーディング機材の充実してきた井上のホームスタジオが、この頃よりカプセルコーポレーション・スタジオと呼ばれるようになる。


道楽主義と『ばるんが通信』
 蓮見のファーストソロアルバム『都市社会楽序説』の発表に合わせ『スノッブマガジン2号』を発行。この編集作業は、蓮見がその年の2月ごろあかのライブ打ち上げで知り合った徳王正暁との新たなタッグによるものだった。この『スノッブマガジン2号』ではじめて「道楽主義宣言」が提唱され、道楽堂の思想運動体としての性格が、ほとんど誰にも気づかれることなく本格化する。
 このタッグはその後も続き、新たなメディアを立ち上げた。『スノッブマガジン2号』での予告から遅れること約半年、翌94年5月に「ばるんが通信」がついに創刊される。これは当人たちの予想を裏切り、一年以上経った現在も発行を続けている。またあかのアルバム『言霊』のアートディレクションも道楽堂久し振りの受託業務として担当した。
 同年8月27日には、「ばるんが通信」納涼特別公演会として、ライブ「都市社会楽の夕べ」を開催。これに合わせ、蓮見のセカンドアルバム『T氏の症例』が発表された。なお、このライブでお気に入りのミュージシャンに囲まれた蓮見は、その中で歌う気持ち良さにすっかり魅了される。さらに翌95年3月にはHASH-MIX,RAREとして屋外ライブを経験、ここで味わった解放感により、ますます増長する。
 一方、井上は94年10月にカプセル〜・スタジオにマッキントッシュ・システムを導入。また、それまでのお付き合いバンドを整理し、自らがリーダーシップを発揮する新バンドMARGEを結成する。それと平行して、ある女性アーティストと究極のユニットも結成するが、残念ながら間もなく活動は無期延期となる。さらに、ライブ演奏を一度行なったのみでMARGEも95年 夏に解散。幸福な新婚生活とはうらはらに、受難の音楽人生が続いている。
 また、蓮見のライター活動開始にともない、本来は非営利集団である道楽堂に、便宜上営利営業部門が開設された。なお、プロデュースユニットとしてのディア・ベランジェールは、この年末年始に掛けてコンブリオのデモテープ「イノセントガール」のアレンジを手掛けている。


30の自由に向けての総決算
 そんなこんなを乗り越えつつの95年9月2日。『エンターテーメント・スペシャルI・II』発行から丸10年を経て、ついに「道楽堂十周年まつり」が開催される。
 このイベントでは、まず7年目の正直、蓮見と高野の新プロジェクトSTART-REC.、続いてルナティックパレードが前野と井上のデュオとして登場。そして、道楽堂最大の亡霊ディア・ベランジェールが大団円を迎える。
 なお、十周年企画の発行物・第一弾としてとしてディア・ベランジェールのコンプリートアルバムを発表。第二弾として、『みどりのかすみ詩集−失語症のレクイエム』をオムニバ ス・カセットブックとして再版することになっている(96年9月発表)。また、START-REC.も近日中にアルバム製作予定(98年1月現在未制作)。その他、今後半年の間に、いくつかの製作物が予定されている。
  「齢(よわひ)経るほど道楽者(じゆうじん)」。これが、十年の歳月を越えてきた道楽堂の現在のテーマだ。

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