花粉症に
立ち向かう私


 春はいやな季節である。
 はじめに自己紹介をしておくと、私は地質屋、つまりフィールドワーカーに属する人種である。花粉症のフィールドワーカーには、この季節、「お杉のピーク」(1998版『御教訓カレンダー』より)が一番嫌なのだ。
 現在、私は秩父の調査をしているが、ここでは宿の窓の桟や階段などに、目で見えるほど黄色く花粉がたまっている。毎年この季節の調査は実にイヤである。花粉症になるまでは植生は落ち着いているし、寒さもゆるむ絶好のフィールド・シーズンであった。なんでこんなつらい思いをしなくてはいけないのかと情けなくなる。ハナミズキは春真っ盛りの花だけど、花粉症にはその前に憂鬱な『鼻水期』が訪れる。
 かれこれ20年ほど前、仲間と丹沢山地を調査していたとき、「みんな、いつも鼻風邪にかかるな〜」と思っていたものだったが、これが花粉症の始まりで、そういった点で、花粉症のパイオニアを自負しているのである。したがって、自分でいうのもなんだが、この問題についての感覚と分析は鋭い。

 花粉症の鼻水は、どうしてあんなに堪えられないものなのであろうか。
 普通の風邪ひきの鼻水は少し粘りがあるのだが、花粉症ではサラサラで突然ぽたりとくる。普通の鼻水では、その予感があれば、おもむろに人差し指で鼻のあたりを少し抑えるだけでごまかせるが、花粉症の場合は、それでは間に合わない。慌てて手のひらを皿のようにして受けてしまうほどのものである。
 「もう少し粘りがなければ何事もダメになってしまうぞ」と、ひとこと小言を言いたい。
 実験してみるとわかるのだが、仰向けになっていても、溢れてくる。重力に逆らって次第に溢れてくる勢いは、なかなかのものである。「そろそろ、いっぱいかなあ」と思う間もなく、鼻の穴の縁から雪解けの小川を思わせるようにするすると流れ始め、下流にたまり始めるのだ。
 しかも、水分の蒸発もあるから、塩分濃度はいやが上にも高まってきて、その縁に塩が白く浮き出してくる。そのうち、皮膚も塩分によって侵されてくる。赤く腫れ、場合によってはひび割れてくると、これはもう悲惨な状態になる。「むずむず」と「ひりひり」という複雑な感覚になってくる。私はこれを「むずひり状況」と呼んでいるのである。そのうち「むずひりの」という美しい語感を持った「春」の枕詞さえできるかもしれない。

 ところで、天気予報の際に言われる、あの花粉情報というのは、もう少し改善されないものだろうか。「非常に多い」とか、「やや多い」というのは曖昧な感じである。だから私は以前から、「震度」のように「花粉度」あるいは「粉度」というものを考えているのである。根拠はないが、粉度1〜7ぐらいに分けてもらいたい。「新潟県・越中地方では、粉度4。越中では、いつもふんどしだあ」なんて放送すると案外ウケルのではないか。
 こうなってくると、「体感粉度」なんてものも考えてみたくなるもんね。実際それほどの粉度でなくとも、強い症状がでるものなのだから。周囲で「花粉が飛んでるみたいね」なんて会話があるだけでポタリとくることがありますね。ひどい場合になると「ふんふん」なんてうなづいているうちに、「ふんふんと言えば花粉だろう〜」というわけでむずむずすることってある訳なんですよ。したがって、体感粉度のような基準も作るべきであるというのが、私の結論である。

 花粉症の症状であるが、鼻の粘膜に花粉が触れると、過剰な免疫反応が起こり、鼻の粘膜が腫れてくる。その結果が、くしゃみ・鼻づまり・鼻水である。目の粘膜に触れれば、目の縁が赤く腫れ、かゆみを伴う症状がでる。耳の中が過敏になってかゆくなることもある。どうも、粘膜の場所が弱い。
 したがって、フィールドワーカーは、他の季節はともかく、この季節、野糞、野小便は慎むべきである。この場合の花粉症は、いかにも美しくないと想像できるからである。

(佐瀬和義)


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