'80s BOYの記録(8)
80年代前半の男性アイドル歌手再考

〜帝国の誕生〜

 「82年組」。レコード業界でいうところの82年度(81年10月〜82年9月)にデビューしたアイドルたちの総称として、20年近く経過した今なお呼び続けられているアイドルラッシュ。松本伊代薬師丸ひろ子小泉今日子三田寛子堀ちえみ石川秀美早見 優中森明菜から、日高のり子川上麻衣子川島 恵ヒーローキャリー吉成 香伊藤かずえ川田あつ子真鍋ちえみつちやかおり坂上とし恵まで、名を挙げ出したらキリがない。
 しかし、男性アイドルに目を転じてみると、このクラス。男子生徒はたった3人だけだったかのような印象を受ける。しかもその3人は、1つの「隊」をなしていた。そして、彼らの出現もまた「事件」なのであった。

 その3人とは、薬丸裕英本木雅弘布川敏和。81年4月から放映開始された『2年B組 仙八先生』にジャニーズ事務所から送りだされたアイドル予備軍だ。『仙八先生』は、それまでの「桜中学」シリーズとは異なり、1年間のロングランとなった。その折り返し点である10月、3人はシブがき隊という世を舐めきったグループ名の下に、揃って課外サークル活動を開始する。テレビ東京『ヤング・ベストテン』がその舞台だ。
 舐めきっていたのは、その名前ばかりではない。ブラウン管の中での彼ら(とくに薬丸)の傍若無人さは、それまでのアイドルの枠型を完膚なきまでに粉砕していた。それは、「悪ガキ」といわれた<たのきん>を軽く凌駕する破壊力だった。例のごとく、在学中はおあずけとなった彼らの音楽活動に関してはとりあえず後に回し、「事件」の背景をまとめてみよう。

 シブがき隊の結成と同じ頃、先輩の近藤真彦田原俊彦は、相次いでシングル曲を「臨時発売」している。この表記をはじめてみた時、何に対して「臨時」なのかよくわからなかったのだが、時局を考えると思わぬ伏兵であるイモ欽トリオの暴れっぷりへの対抗措置なのではないかと気がついた。実際、81年9月30日に臨時発売された近藤の4thシングル「ギンギラギンにさりげなく」は、初登場1位によって、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」の連続1位記録を7週で阻止しているのだ。これが偶然でないことは、残っている数字からも垣間見えてくる。
 「ギンギラギンにさりげなく」の売上記録は、81.6万枚。松田聖子「風立ちぬ/Romance」に途中1週その座を明け渡すも7週間1位を維持する大ヒットとなった。一方、10月16日に臨時発売された田原の6thシングル「グッドラックLOVE」は、最高3位に留まるも49.5万枚の大ヒット。これらの売上枚数は、両者ともデビュー曲をピークに下降線を辿る中にあって、明らかな突出点となっており、そのための並々ならぬバックアップがあったことは明らかなのだ。

 そもそも<たのきん>という「事件」によって幕を明けた「アイドル時代」。その震源としての自負あるジャニーズ事務所にとって、大手プロダクションの正統派アイドルならまだしも、アイドルの引き立て役であるべきお笑い芸人に「トップアイドル」の座を奪われることなど容認できるだろうか‥‥。
 それまでの中堅プロダクションとしてのポジションから、男性アイドル制覇へと突き進む原動力が、この怒りにあったと考えるのは、短絡的だろうか? 否、理由はどうあれ、この81年秋が、ジャニーズ事務所にとって、そして日本芸能界にとってのターニングポイントだったことは間違いないのだ。
 そして、シブがき隊の投入。アイドルとしての言動に対する管理が厳しいといわれたこの事務所にあって、シブがき隊の面々に対する放任振り、そしてシブがき隊というプロジェクトがそもそももつアナーキーさは、「アイドル界」に侵攻してきた「お笑い=アナーキズム」に対するカウンターパンチだったのではないか? そう考え出すと、ヤッくん、モッくん、フッくんの頭文字「YMF」を全面に出していたことが、「YMO」のパロディという以上にイモ欽トリオが「YMO」のパロディとして使っていた「IMO」への当てつけに思えてくるし、「イモ」に対抗しての「渋ガキ」にも思えてくるのだ。

 <たのきん>というトライアングルの一角、野村義男の「三枚目」路線を「シブがき」という「アナーキズム」に置き換えての新展開。さらにその弟分として、『ヤング・ベストテン』他、各種アイドルバラエティ番組のアシスタントとして配置されたジャニーズ少年隊こと錦織一清植草克秀東山紀之ら。田原・近藤という2点を結ぶ「線」を「面」として広げるこの「ファミリー」という存在によって、ジャニーズ事務所による業界包囲網が動き始めたのだ(この動きの裏で、一歩退いた野村が、シブとはまた別のアナーキー性を充填しはじめていた‥‥という話は、また改めて)。
 こうして、フツーの男性アイドルがジャニーズ事務所以外から登場し、成功を納めることが困難になる状況が生まれた。エスビー・パフスティックCMで登場した宮田恭男は、かなりの注目を集めるも、81年11月21日発売のデビューシングル「ガール」は、最高67位の2.7万枚止まり。『スター誕生』10周年記念タレントとして11月25日に「BAD BOY ON STAGE」でデビューした松本泰司も、TBSドラマ『鞍馬天狗』沖田総司役で注目され82年1月1日に「街角ロンリー・レイン」でデビューした羽賀健二もチャートインならず。81年デビュー組のなかでも、それなりのポテンシャルを持っていた沖田浩之竹本孝之は、最も割りを食ったカタチとなったはずだ。

 しかし、主流が明確になればアンチも明確になる。その第一波は、とある街角のひとつの「弁当屋」から生まれた。そう、あの「一家」の登場だ。

主な参考文献:
『オリコン チャート・ブック アーティスト編』(1988)
『オリコン』(1980.6-1982.10)

(ピーター・レン)


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この連載を始めるきっかけとなった「歌手・沖田浩之」再評価について、想いを同じにする方々と交流を持つことになった。そして、沖田浩之CD化への願いをもってキャンペーンを開始。そして、その願いはついに現実のものとなった。詳しくは「沖田浩之CD化キャンペーン」へ。


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