『恐怖劇場アンバランス』の世界
(第3回)
「木乃伊(みいら)の恋」
性と死の執着
(後半)



 ラスト、鳴り響く踏切をバックに夫の姿が浮かんでくる映像があり、全く今でも意味不明なのだが(これが布川であったら、あまりに陳腐なオチとしても理解は出来るのだが)当時、高校三年生であった私にとって初の「ワケわからない」系(デビッド・リンチ系?)演出体験であった。
 だが、放映前に「映画評論」に載ったシナリオ(田中陽造)や、原作の円地文子の「二世の縁捨遺」(「春雨物語」と書いたが、モチーフとなったのは、その中の一編「二世の縁」である)を見ると、多少分かるような気はする。
 特に原作では観念的に述べられている「定助はどの男達の中にも存在する」といった性への執着心(男性だけではなく、両性にとっての)そのものを表しているのかもしれない。

 悟りを開き、解脱したはずの僧が蘇えり、現世で果たせなかった欲望の化身となったり、死の寸前にその全てを果して去っていく布川の霊、といった「人間の性欲への執着」の描写。それが、そのテーマ性の持つ下世話で不謹慎なイメージに反して、戦慄させるに十分なほど奇怪でありながら、異様なほど洗練された美しさを最後まで保ち、B級というニオイがないのは、やはり上田秋成、円地文子、田中陽造と三者の解釈を踏まえた上で、それを映像化させた鈴木監督の手腕によるものであろうか。

 前半の「春雨物語」のファンタジック&コミカルな映像化と、後半の現実のスリラー演出の対比が見事であり(特に低音のピアノのアルペジオが不気味なBGMが、ラストの恐怖を煽っている)特撮シーンも含め、名シリーズ「アンバランス」1話を飾るにふさわしい秀作である。‥‥不均衡さ故の映像美か、サイケデリックな幻想を体験して頂きたい。

 余談だが、シナリオの掲載されている「映画評論」に定助役の脚本家・大和家竺の寄稿があり、その中で笙子役の渡辺美佐子が異様に色っぽく撮れていると書いているのだが、やはり「どの男の中にも定助はいる」のだろうか?そして、女もまた‥‥。

つづく:藤井 宏治)


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