'80s BOYの記録(2)
80年代前半の男性アイドル歌手再考

〜「たのきん」からはじまった〜

 いまとなってはピンとこないが、田原俊彦の歌手デビューは「事件」だった。1980年6月21日にポニーキャニオンから発売された「哀愁でいと」が、オリコン初登場8位を記録したのだ。「それがどうした?」というなかれ、デビュー曲初登場ベストテン入りというのは、オリコン史上初のできごとだったのである。
 翌週には2位に浮上し5週連続2位を記録。チャートイン(週売上枚数100位以内)中の売上枚数は、約72万枚とニューミュージック&演歌全盛のこの時期のアイドル歌謡としては、破格の超ヒットとなる。大ヒットした感のある沢田研二「TOKIO」でさえ、約34万枚であることを考えれば、それが「事件」だったことが理解できるだろう。ちなみに、この期間は10週連続1位を記録し、年間売上げ1位(162万枚)となった、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」が圧倒的な強さを見せていた。
 さらに、シングルデビューから約ひと月後の8月5日にはデビューアルバム『田原俊彦』が初登場1位を記録。9月21日発売のセカンドシングル「ハッとして!Good」も初登場1位と続き、歌手としての「2作目の鬼門」を軽々クリアしたのである。

 いまさら言うまでもないが、田原俊彦のデビューは、1979年秋から1980年春まで放映されたTVドラマ『3年B組金八先生』での生徒役ある。この放映中に同じ所属事務所からこの番組の生徒役として出演していた近藤真彦、野村義男とともに「悪ガキトリオ」として人気を集める。彼らは番組終了後も「たのきんトリオ」と呼ばれ、引き続きこの3人が主演の学園ドラマ『ただいま放課後!』やバラエティ番組などで活躍し、アイドルタレントとしての人気をさらに高めていった。
 そして、『金八先生』終了から約3ヶ月後に、トリオの先陣をきっての田原俊彦・歌手デビュー〜大ヒットとなるわけだ。

 これに続くのが、田原と人気を二分していた近藤真彦だ。ただし、レコードデビューは若干待たされての同年12月12日。RVCから発売のデビューシングル「スニーカーぶる〜す」は、同名映画の主題歌としてのタイアップで、セールスプロモーションも田原の比ではない圧倒的なものだったように思われる。
 まったく同時に人気が出て、セットで売り出された両者の歌手デビューに半年もの開きがあることの理由は、当時から「新人賞レースでぶつからないように」と言われていた。たぶん、そうなのだろう。
 しかし、当時の彼らの所属事務所(これまた言うまでもなくジャニーズ事務所)のそれまでのタレントを振り返ると、こんな画策とは無縁だったように思われる。1968〜78年に活動したフォーリーブスと1972年デビューの郷ひろみ以来、レコードセールスで話題となるようなタレントはいなかったからだ。しかも同時に複数など。
 フォーリーブスとほぼ入れ替えに1977年にデビューした川崎麻世は、アイドルとしてはそれなりに人気を得ていたが、レコードセールスはもっとも売れた「暗くなるまで待って」でさえ5万枚ほどの記録でしかない。いや、そもそも、当時の男性アイドルとは、そんなものだったのである。西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎の新御三家とスーパースター沢田研二を除いては。

 そこへ来ての「たのきんブーム」と歌手・田原俊彦の大ブレイクである。ここに鉱脈を見つけた所属事務所とそれを巡るレコード業界。まさに、満を持しての「歌手・近藤真彦」デビューは、当時としては史上最大の巨大アイドルデビュープロジェクトだったといっていいのだろう。
 そして、その期待に応えて「スニーカーぶる〜す」は、「哀愁でいと」の記録を一気に塗り替える初登場1位、約105万枚のセールスをあげるミリオンセラーとなった。ちなみに1981年の年間売上げ上位は、この春10週連続1位を記録し130万枚を超えた寺尾聡「ルビーの指輪」、足掛け二年にわたってじわじわと売上げを延ばし「ルビーの指輪」ヒット時に2位を記録した竜鉄也「奥飛騨慕情」(130万枚弱)、そして3位に「スニーカーぶる〜す」となる。

 こうして「アイドル」がレコード産業の主力商品となる時代がはじまった。「たのきん」のもうひとり野村義男と、「アイドルの時代」のもうひとつの側面である松田聖子にはじまる女性アイドルについては、それぞれ項を改めることにしよう。

(ピーター・レン)


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