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道楽主義の背景
 我つくる。   
  故に我あり。
〜「ホントの私」なんていらない 〜

 「ふ〜 あむ あい」ってのを、まあ若い頃は考えるわけですが、若いミソラで答えなんて出せるものではない。つーより答えなんて、そもそもないわけですね。「私には使命があるはずだ」なんていったって、そんな都合のいい人生なんてないんです。自分を「何者か」にするのは、結局自分しかいないわけですから。メンドーだけど。

 で、ひとつ「職業」というのを考えてみる。けれど、ごく一部の「しあわせ」な人をのぞいて天職なんてそうは巡り合わないし、厳然とした階級制度のない社会では「職業」で人をとらえるなんて、もはやナンセンス。「なりわい」はそれとして、もっと自分の生理に根差した顔を意識していいはずだ。

 「職業」の話しついでに、あんまり関係ないけどひとつ。以前からふに落ちないのが、芸術家とかプロスポーツ選手って「職業」。東京メッツ入団前の金太郎じゃないけど、これを「仕事」ってとらえるのって、ホントはそーとー特殊なセンスなはずなんだ。まあ市場が成立しているんだから、べつに構わないんですけど。

 あ、論旨を見失ってしまった‥‥。そうそう、自分が何者かっていう話だ。つまり、自分を規定するのは自分の意思だってことが言いたかったんだ。とはいってもそれが「食う」と直結することばかりじゃないわけで、じゃあ他にやればいいじゃない、ってことなんだ。なんか、当たり前のことしか言ってないなぁ。

 そんなことを考えてるうちに「道楽」って言葉が思い浮かんだんです。「道楽堂」はもう長く名乗ってるけれど、あらためて「道楽」を考えてみたら、これこそ自己実現の最たるものじゃないかって気づいたんです。なんたって自分の意思でやるものだし、本来すっごくポジティブな行動なんですから。

 で、「道楽」を軸にいろいろ考えていたら、つながるつながる。好きなこと・嫌いなことの相関図。一本筋が通っちまったんですね。この四半世紀に感じてきたことが。それをまとめたのが、この宣言の骨子になったわけです。幸い賛同者も多くて、まんざら偏った見解ではないことも分かったし、これからはこれで行こうということになった。

 要は自覚的に楽しくやろう、ってことです。自覚的になれば、恥ずかしくってできない行動ってのが、おのずと出てくるはずなんです。偉ブルとか他人のセーにするとか。それに楽しむのって、結構マジになんないとホントはツマんない。あと、運を動かすのは自分の行動だってことで、DO-LUCK。こじつけにしては、あまりにはまってるでしょ。道楽主義=ドゥラキスム、ドゥラキストなんてね。ドラキュラみたいでヘンだな。

 また話しが逸れたな。で、表題になるんだけど、「ホントの私」なんてドーでもいいんです。「私」なんて探したって見つかりゃしないんだから。「私」をつくる。行動で、既成事実として。勝手に「私」になっちゃえばいいんです。

 また余談ですが、自己表出ってのもいい意味では使われないけれど、言っちゃったことに後からでも近づこうとするなら、もう立派な向上心になるんだし、有効な手投だと思います。スノビズム=はったりも、よいんではないかと個人的には思うんだな。まあこのへんは蓮見個人の考えであって、他の道楽主義賛同者とは違っていてなんら問題はないわけです。道楽主義は、個人の解放のための「手段」でいいわけですから。

 まあ、皆さんにも道楽主義を都合よく解釈してもらって、楽しい人生を送る方便に使ってもらえたらなあと、思う次第です。  

(蓮見季人:『スノッブマガジン』No.2,1993.10より)


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